History 温泉の歴史
8世紀 奈良時代
石見風土記「南東在出湯不用之」(南は志学・東は小屋原)との記載あり。 |
1781 寛政1年
志学村有地字湯ノ谷に村民が温泉を発見。数棟の茅葺家を建てる。 |
1800 寛政12年
三瓶一二勝の一景、湯谷温泉が選ばれる。「湯谷は人家稀なり出湯ありて常に煙たえずその湯人の病などいやすこと神のごとしとかや」「四岳」から「志学」に変更(今田知卿) |
1812 文政元年
1833 天保4年
奥の湯のある所に浴場を設ける。泉温33℃の記録がある。入湯は多くなかった。 |
1839 天保10年
1872 明治5年
浜田地震(M7.1)m泉温が49℃まで上がる。入湯客増加 |
他地域でも温泉噴出 |
・磯竹村(五十猛町)野梅温泉・小浜村・温泉津温泉「震湯(新湯)」 |
1878 明治11年
志学村村長 梶谷啓次郎が川合村岩谷氏から温泉の権利を買い戻す。 |
1886 明治19年
同年3月〜7月
現在の旧温泉街に温泉を導入し、旅館や土産店を誘致し、温泉街となる
同年6月
広島第五師団野砲第五連帯が、三瓶の原で初の実弾射撃を実施。
和牛放牧期間の八十八夜から半夏を避ける契約。
1888 明治21年
1892 明治24年
広島第五師団野砲第5連隊が1週間の演習 室ノ内池に鯉を放流 |
1893
1899
1900
同年
志学で全国初の府県連合の畜産共進会、中国5県ブロック共進会が志学で開催 |
1905 明治38年
芸予地震(M7.1)10回の地震 温泉の噴出量が増える 湯温43℃ |
1906 明治39年
1908 明治41年
陸軍兵舎 志学八面神社隣地に建設 兵舎15棟 物品倉庫、連帯本部、浴場5棟が広島より移築 (演習時 夏〜秋には7,000人〜8,000人) |
1912 明治45年
温泉番付「大日本帝国温泉一覧表」では、 |
東前頭8枚目に「石見の温泉津」「石見の天河内」「石見の志学」「石見の小屋原」とある。 |
1915 大正4年
1917 大正6年
1920 大正9年
軍厩舎の水源として、勝負口・松ヶ平を掘る 温泉が出る。(冷泉 松ヶ平温泉)
1922 大正11年
1938 昭和13年
1942 昭和17年
1946 昭和21年
陸軍兵舎に開拓団入植 演習地跡開拓し牧場などに利用 |
1948 昭和23年
佐比売村所有温泉地、土地建物全てを国立公園島根観光地区建設期成同盟へ売却(40万円) |
1950 昭和25年
1958 昭和33年
1959 昭和34年
1961 昭和36年
1963 昭和38年
豪雪により被害甚大 ラムネ製造工場も閉鎖 |
大山隠岐国立公園に指定 |
1970 昭和40年
1971 昭和46年